大昔は、国府台や北部の台地まで海が深く入り込んで、ひたひたと大地の裾を浸していました。しかし、海退現象により海岸線が南に下がって台地と砂州の間に入江が生じました。即ち、現在の江戸川に開口している真間川河口付近から須和田、菅野、国分方面に向かって広く入江状になったわけです。この情景を「真間の入江」として万葉集に数々詠まれています。
「葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ」
「葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船頭騒ぐ波立つらしも」
真間の語源は、一般的に崖状や急傾斜地、土堤など、地形を指したものと言われています。
こうした地形において、台地の裾を「根本」といい、このあたりを「根本村」と呼んでいたそうです。
近代になり、行政単位の昔の戸籍上では、市川村(市川一丁目~四丁目)に属しました。ただし、安政四年(1857年)「市川村名主より、昨日の大風雨で江戸川が出水し、なお増水中なので根本門樋まで材料付添人足を・・・・」とあり、ここに「根本」が使われています。
■明治以降の「根本」が属する市川村のあゆみ
・明治4年(1871年)~「町村制」の廃止により市川村は「小区」となる。
・明治11年(1878年)~町村制の復活により、「市川村、新田村、平田村」の3か所による市川村(連合町村)の行政単位となる。
・明治19年(1886年)~「市川村、市川新田村、平田村、真間村、国府台村、栗山村」の六カ村による「市川村」(連合町村)行政単位となる。
・明治22年(1889年)~市川村は「市川新田村、根本村、真間村、平田村、国府台村」の五カ村を合併して「市川町」となる。
ここで市川町施工にあたり、潜在化していた「根本村」が町制構成単位として名を表しています。
・昭和9年(1924年)~市川町、八幡町、中山町、国分村の三町一村で「市川市」誕生となる。この市制施行と併せて「字名」が導入され「根本」は「市川市大字市川字根本」となります。
・昭和26年(1951年)「字名」が整理され「市川市根本町」となります。ここに、いにしえからの地名「根本」は、名実ともに市川市の町名として位置づけられました。
・昭和40年(1965年)住居表示の整備により「根本町」の大半は「市川四丁目」となりました。
さて、市川四丁目になってから半世紀以上過ぎましたが、自治会名は由緒ある「根本」の名を冠として現在まで続いています。
この「根本自治会」は昭和12年(1937年)「市川市史年表に記録」に設立しており、現在市川市にある約250自治会で最も古い自治会といっていいでしょう。
このようなことから、「根本」の地名と自治会のもと、先人達の業績をたたえつつ、「隣保精神」による地域のふれあいを深め、地域コミュニティをなお一層つくり上げたいものです。